私が子供の頃、夏休みの間に2回だけ学校に行かなければならない日がありました。その一つが8月6日、原爆の日と呼ばれる日でした。この日は、戦争の悲惨さを伝え、平和の重要性を訴えるための日とされていました。
しかし、当時の私にとって、それはただ怖さを感じる日でしかありませんでした。私は戦争や原爆についての事前知識を持っていなかったので、人々が死ぬ恐ろしい物語や原爆被害者の衝撃的な写真を目の当たりにした時の恐怖は深く心に刻まれ、今でもトラウマとして私の心に残っています。
あの頃の平和教育は、"戦争は怖いから嫌だよね、平和がいいよね"という単純なメッセージを私たちに伝えるだけでした。それは私にとって、子供を戦争の恐ろしさから遠ざけるためのものであると同時に、何となく曖昧で不具体的な概念である"平和"を強制する形に感じられました。
経験を通じて、私は"平和"という言葉に対して疑問を持つようになりました。特に、日本人が求めている"平和"とは、何を意味するのか、どのように達成するのか、本当にその意味での平和を求めているのか、という疑問です。
私が思うに、日本人が求めている"平和"とは、和を乱さない、つまり、社会の秩序や一体感を維持するということかもしれません。しかし、そのような"和"を求めることが、本当に平和(PEACE)を意味するのか、私は疑っています。真の平和は、ただ秩序を保つだけでなく、個々の自由や尊厳を保護し、社会的な公正を促進することを含んでいなければならないと思います。
私は特に、日教組のような組織に対して、強い怒りを覚えています。その怒りは、彼らが伝える平和のイメージが、恐怖と無知に基づくものであり、それが私の心に深く刻まれたトラウマの原因であると感じているからです。
現在の私は、平和教育の在り方について深く考え、その本質を理解することが重要だと感じています。平和教育は、単なる恐怖を感じさせるだけでなく、戦争の現実を理解し、平和を尊重する方法を教えるものでなければならないと思います。そしてその教育を行う際には、私自身が平和という概念に対する深い疑問を持つことを忘れず、その真実を探求することが求められていると感じています。