ども、てらかっぱです。
息子が受験。この時期、親としてできることは金頼みか神頼みしかない。
金はまぁ置いといて、早速正月二日に神頼みに来ました。
でっかい鳥居が目印の大分を代表する神社の一つです。
さて、この神社、地元ではこうとう様と呼ばれています。漢字で書くと狐頭様。なぜでしょう。
その理由をウィキペディアを引用してみる。
岡藩藩士が白狐の頭を埋めて以来狐頭原と呼ばれるようになった地に、元和2年(1616年)岡藩主中川久盛が稲荷神を勧請して創祀された
天保年間(1830年 - 1843年)、江戸屋敷にいた岡藩第12代藩主中川久昭の夢に稲荷狐頭源大夫と名乗る神霊が現れ、「翌日の江戸城への登城は危険なので気をつけるように」との予言を授けた。久昭は翌日の登城中、実際に暴漢に襲われたが、この夢告により難を逃れることができたため、神徳に謝して社殿を寄進、「扇の森」との社号を贈った。これにより当社は扇森稲荷神社と称するようになった。ただし、それ以降も「こうとうさま」と呼ばれることが一般的である。
ふむふむ、狐の頭を埋めたから狐頭様?
なるほど。
この記事を河童研究家的に解説してみよう。
岡藩初代藩主中川久盛は織田信長豊臣秀吉の家臣。それが、関ヶ原の合戦で東軍についたため、徳川の家臣として、岡城にやってきた。かつては大友宗麟の家臣が治めていた地である。さらに遡れば源義経の家臣の緒方氏が治めていた地でもある。
長宗我部氏が支配していた、四国土佐を与えられた山内一豊と同様、岡藩の領地経営は厳しかったと考えられる。
大友の旧家臣や土着の豪族の抵抗もあったであろう。
そんな時、起きたのが、岡藩藩士による白狐殺害事件
こういう話を聞いた時の考え方として、妖怪っぽいものは人間として考えるということである。
安倍晴明の母親が白狐であったという伝説があるように白狐とは霊的なものの象徴。
おそらく白狐と呼ばれた人物は土着の宗教的指導者であったのではないかと僕は考える。
その白狐を岡藩藩士が切ったということは、武力で持って岡藩がこの土地を支配したということの証拠である。
そして首を切られた宗教的指導者は頭を山に埋められる。当然のごとく怨みを持って死んだ彼はこの地に災いを起こす怨霊となったはずである。
その怨霊を鎮めるためにはひたすらお祭りするしかない。そのため中川久盛はココに稲荷神社を作ったのではないか。
そしてその怨霊は完全に静まるのは12代藩主の時になる、それ以降狐頭さまは神として岡藩の守り神になる。
また境内には恩返しをした狐の話が書かれている。
《お産を手伝ったお婆さんの元に鯛が届けられた。しかしそれは領主様の献上品。
領主の鯛を盗んだ罪でお婆さんは打ち首にされる。だが死体は狐に変わっていた。》
不思議だね。という話。
これも、解説してみよう。
皆さんご存知の通り竹田には海がない。そこに鯛ということは大変貴重なものである。そんな高級品食べられるのは殿様くらいしかいない。と普通の領民なら思うだろう。しかしそこには岡藩の支配が及ばないキツネと呼ばれる民族がいたと考えられる。岡藩藩士に切られた指導者の一族だろう。もしかしたら稲荷神社を根城にした山賊になっていたのかもしれない。
その狐一族が鯛を奪ったということがわかっていたとしても岡藩にとって狐一族はアンタッチャブルな存在。
しかし、落としどころをみつけてなんとかしないと藩の面目は立たない。そこでお婆さんはスケープゴートとして打ち首にされたのだろう。
領主に対して普段から怨みを持っている狐一族は打ち首になるお婆さんを助け、代わりにキツネの死骸を置いていったのだろう。狐頭様の怨霊はその当時も信じられていたのでキツネを置いておけば庶民は怨霊のせいと勝手に思い、都合が良かったに違いない。
これは領主への批判が込められたエピソードの一つであろう。
あくまで僕の河童研究家としての私見である。
扇森稲荷神社