どもてらかっぱです。
最近、子どもを殺す事件が多いね。でも自分の子どもを殺した時って他人の子どもを殺した時より罪重いってどういうこと、というmassannさんの記事からちょっと考えてみました。
ヒルコは子殺しより捨て子の話
ブログ主が書かれているヒルコにつきましては、最古の子殺しというよりは最古の捨て子だと僕は思っています。古事記には語られていませんが、ヒルコは流れ着いた先の村人に神様として祭られることになります。神としては不完全としても、おれたち人間よりは優れているということのようです。ヒルコは漢字で書くと蛭子、エビスとも読みます。七福神のエビスさんと同一人物です。海からやってきた物や、海からとれる産物で暮らす、漁村の神様として今でも大切にされています。もしかしたら漫画家の蛭子さんも神様なのかもしれません。
仏教的な子殺し
仏教の考え方においては、出産から七日目までは子どもは生まれていないことになっています。医療事情の悪い古代においては、死産だったり、生まれてすぐに死んでしまう子どもが多かったということです。7日目まで生きていれば、まぁ大丈夫だろうってこと。逆に7日目までは子どもを殺しても問題はないということになります。たとへば女中に手を出した旦那さんが産ませたくないという場合や、奇形や障害で生まれてきて明らかに生活に支障が出ると思われる場合、飢饉や天災で食べるものがなく口減らしをしなければ、他の人が飢え死にしそうな場合などいろいろなことが考えられます。その場合誰が手を汚すのか?それが産婆さんの仕事になります。村の長老や一家の主が(もしくはこどもを産みたくない母親が)産婆に頼んで生まれた瞬間に首をきゅっとひねって命を絶ってしまうのです。他の人には内緒で。だからこそ、産婆さんには口の堅い信用できる人が選ばれます。
そして妖怪が生まれる
中には、殺すに忍びないと思い、産婆さんがこっそり、生きたまま川に流してしまう場合もありました。僕も幼少のころ、生まれたばかりの猫を祖父と一緒に川に流したことがあります。それもこの風習の名残だったのかもしれません。または跡取りがなく、自分が産んだ子どもにしておきたい裕福な家庭にこっそりもらわれていくこともありました。死んだ子どもは川に流されるか家の床下に埋められます。生き残った子も死者として扱われるため、河童や座敷わらしと呼ばれるようになります。
もしかして儒教に原因があるかも?
また、江戸時代から流行した儒教そしてそこから発展した朱子学においては、子はいかなることがあっても親に従うことを教えられています。親が黒と言ったら白でも黒なのです。親が大学に行けと言ったらアイドルになりたくても大学に行かなきゃいけないんです。親が結婚しろといった相手とは結婚しないといけないのです。
現代の子殺し
現在においては食料も医療も法律もしっかりしているので、親が子どもを殺さなくてはいけない、間引かなければいけない状況もなくなりました。親が絶対権力で子どもに言うことをきかすこともなくなりました。今起きている子殺しの問題の多くは、時代が変わったこと学んでいない親が、自分の親からされたことをそのままトレースしているのだと思います。メディアが発達していない戦前の山村ならともかく、現代社会においてやっぱり教育は大事ですよ。嘘ばっかり垂れ流しているメディアとはいえ、まったくテレビをみない、本を読まない、自分より賢い人と話さないというのは怖い。
やっぱ大事なのは教育でしょ
日本において、子どもは親が生殺与奪権をもつ所有物ではない。多くの日本人は知っているが教育をまともに受けていない一部の人間には、そのことを知らないものがいる。人間を動物と考えれば、生活に困った場合、自衛のために子どもを殺すことは考えられる。日本の教育をまともに受けていれば、生活困窮時に子どもを殺す必要はないことが分かるはず。
ではでは
追記
massannさんがこの記事をみてさらに詳しい記事を書いてくださりました。
資料も多く提示されており、独自の考察も面白く、とても良い記事でした。